桜 歴史的名木の今昔

歴史的名木の今昔

樹齢や環境の変化による樹勢の衰え、又は枯死してしまった桜の名木たち。
先人が残してくれた写真や資料を基に往時の様子をご紹介します。
※掲載写真は著作権の保護期間満了、個人所有の物、提供者から了承を得たものになります。
※樹高、幹周りの数値は過去の物を掲載してます。



山高神代桜

山高神代桜

【樹 高】 13.6m
【幹周り】 10.6m(地上1.5m)
【枝張り】 東西27.0m・南北30.6m
日本武尊(やまとたけるのみこと)が植えたと伝わる。
大正初期には雄大な姿を誇っていたが、天然記念物指定による石囲い・盛り土等により樹勢が衰えるという皮肉な結果に。


主幹から四本の枝幹に分かれているが近年の暴風の為、樹形を損なった。

日本巨樹名木図説より抜粋(1936年出版)


【現 在】
樹勢回復工事により樹勢も回復し健在だが、主幹は朽ち樹高も低くなっている。

山高神代桜

写真:桜日和所有

根尾谷淡墨桜

根尾谷淡墨桜

【幹周り】 7.89m
【根周り】 10.5m
根尾谷の山深くにある淡墨桜が知られるようなったのは大正時代。1913年(大正2年)大雪の影響で幹の一部に亀裂が生じ樹勢が衰えだす。


幹の北側基部から大枝、更に地上約1.5m付近から東西にそれぞれ大枝を伸ばしている。

日本巨樹名木図説より抜粋(1936年出版)


【現 在】
伊勢湾台風により被害を受けるがその後の保護により再生。現在も樹勢は旺盛。

根尾谷淡墨桜

写真:史蹟名勝天然紀念物調査報告 三好学

三春滝桜

三春滝桜

【幹周り】 9.4m(地上1.5m)
江戸時代から全国に名が知られていた程の大樹であった。


山間斜面の中腹に立ち根元は低地と高地で1.5m差がある。幹の西側木部から周囲約2mの大枝が出ている。

日本巨樹名木図説より抜粋(1936年出版)


【現 在】
変わらず元気に多くの花を咲かせ、沢山の観光客が訪れる。数百本の子孫樹がある。

三春滝桜

写真:日本巨樹名木図説 三好学

石戸蒲桜

石戸蒲桜

【根周り】 11m
源範頼(蒲冠者)ゆかりの桜として江戸時代から知られ、滝澤馬琴の著した「玄同放言(げんどうほうげん)」では地元の古老から聞いた蒲ザクラの歴史を紹介、渡辺崋山が描いた見事な蒲ザクラの挿絵が添えられていた。


根元から4本の大支幹に分かれ、それとは別に中央に太い支幹が朽ちた跡が残っている。それぞれの支幹の太さは、東2.5m、北4.8m、西2.5m、南3.9m。

日本巨樹名木図説より抜粋(1936年出版)


【現 在】
昭和41年の台風で支幹2本が折れ、現在残るのは1本のみ。枯死寸前と言われたが懸命な樹勢回復の取り組みの結果、昭和52年に「実に10年ぶりの開花」と報じられ、現在も沢山の花をつける。

石戸蒲桜

写真:史蹟名勝天然紀念物調査報告 三好学

狩宿の下馬ザクラ

狩宿の下馬ザクラ

【幹周り】 8.5m(地上1m)
かつては樹高35m、幹囲り8.5mの巨木で日本最大のヤマザクラと称されていた。


枝が四方に広がり樹勢も旺盛だが、近年暴風のため大きな枝が折れた。

日本巨樹名木図説より抜粋(1936年出版)


【現 在】
度重なる台風の影響で樹勢は衰え、現在はひこばえが伸びて株立状の樹形となっている。

写真:日本巨樹名木図説 三好学

素桜神社 神代桜

素桜神社 神代桜

【幹周り】 9.8m(地上70cm付近)
【根周り】 8.8m
神(スサノオノミコト)が植えたことから「神代桜」と呼ばれ、古くからこの地の住民達の拠り所として大切にされてきた。


祠前の石段斜面にあり、正面側は裏側よりも70cm低い。高地面の寝回りは8.8mで77cm上から3つの支幹に分かれている。中央の支幹が最も太く周囲5.9m。樹高は高いが折れ枝も多い。

日本巨樹名木図説より抜粋(1936年出版)


【現 在】
大正時代の風害で枝振りの良かった南側の大枝が損傷し、残る2本の主幹も衰弱し多くの支柱に支えられていたが、その後の樹勢回復処置により樹勢も回復している。

素桜神社 神代桜

写真:日本巨樹名木図説 三好学

伊佐沢の久保桜

伊佐沢の久保桜

【幹周り】 8.1m(地上1.5m付近)
【根周り】 7.7m
江戸時代には枝の広がりが四反にも及んでいたことから、四反桜(よんたんざくら)とも呼ばれていた。
四反=1200坪(2400畳)。


地上1.5mの高さで3つの支幹に分かれている。幹の東側が裂け空洞ができている。

日本巨樹名木図説より抜粋(1936年出版)


【現 在】
幕末の頃、乞食が桜の根元のほこらで炊事をしたところ、朽ちた部分に火が燃え移ってしまい、大枝2本と他の枝が枯れ落ちて、樹形が一変。樹勢回復も行われたが枯れ枝が多く大分弱っている。

伊佐沢の久保桜

写真提供:豆いち 石塚 保宏さま

大戸の桜

大戸の桜

【樹 高】 15m
【幹周り】 9.5m(地上1.5m)
【根周り】 10.4m
水戸光圀公も鑑賞したと伝わる。大正時代初期には枝が大きくはりだし、その広さは300坪(1000平方メートル)に及んだ。


根元から大小多数の枝を出し、北側と南側にある2つの枝が最大。

日本巨樹名木図説より抜粋(1936年出版)


【現 在】
樹勢が衰え幹は朽ち、現在は成長したひこばえが花をつける。

写真:日本巨樹名木図説 三好学

大島の桜株

大島の桜株

【幹周り】 7.85m(地上1.5m)
【根周り】 7m
大島に現存するするオオシマザクラのなかで最大・最古のもので、房総方面から大島に向かって海を渡る時はこの桜を目印に航海したといわれるほどの大木だった。


主幹の基部のみ存在し約10本の枝を伸ばしている。横に伸びた枝は屈曲して地面についた後再び上方へ伸びている。基部のみ存在する事から桜株と呼ばれている。

日本巨樹名木図説より抜粋(1936年出版)


【現 在】
昭和30年代の頃は1株の巨木だったが、昭和40年(1965年)年頃から大きく傾き始め、平成17(2005)年の台風により倒壊。朽ちた主幹から大小の枝が四方に伸び広がる珍しい樹形のまま生きている。

写真:日本巨樹名木図説 三好学

三隅大平桜

三隅大平桜

【幹周り】 5.4m(地上1.5m〜2m)
【根周り】 5.4m
昭和10年(1935年)の国指定時には分岐した幹枝が11本もあり、雄大な樹冠を形成。


根元から2m程の所で6つの大枝に分岐し、幹が太く枝張り広く壮観。

日本巨樹名木図説より抜粋(1936年出版)


【現 在】
山火事・台風等により4本が被災、さらに平成4年9月の台風19号では3本が折損し、現在残る幹枝は4本のみだが樹勢は良い。

写真:日本巨樹名木図説 三好学

盛岡石割桜

盛岡石割桜

【幹周り】 2.7m(枝が分岐直下)
【樹高】 5m(石の表面からの高さ)
【石の高さ】 1.6m
【石の周囲】 21.8m
巨石が落雷をうけてできた割れ目に桜の種子が入り込み成長したと伝わる。


石の中にある幹及び根の部分は見え難いが狭い隙間で異常な成長を遂げている。不自然な状態にも関わらず石の上にある幹は比較的良く育っている。

日本巨樹名木図説より抜粋(1936年出版)


【現 在】
樹勢の衰えが心配されたが樹木医による治療により成長中。石の割れ目の幅も年々広がっている。

写真:日本巨樹名木図説 三好学

血染の桜

血染の桜

山形城二の丸(現霞城公園)にあった。
天正12年(1584年)武将白鳥十郎と対立していた当時の山形城主最上義光は、重病と偽り山形城に呼び寄せた白鳥十郎を惨殺。その返り血を浴びた桜が「血染の桜」と伝わる。
明治31年から山形城二の丸には歩兵第三十二連隊が駐屯し「血染の桜」は連隊のシンボルとされた。桜の前に連隊旗が安置されて、一般市民にも拝観が許されたという。
連隊歌では「霞城に咲き誇る血染めの桜仰ぎ見よ」と歌われている。

【現 在】
強風により折損し昭和32年に枯死。同年代の霞城の桜(エドヒガン:推定樹齢650年)は健在。

写真:桜日和所有

お達磨の桜

お達磨の桜

昔、桜の近くには渡船場が置かれていた。対岸を『宮代千軒』、こちらが『達磨寺千軒』と呼ばれ、両岸には多くの人家が建ち並び、茶屋もあって大いに賑わった。桜は当時の船着場の目印に植えたのではないかといわれている。

【現 在】
三本あったがもっとも風格のあった1本は、痛みが激しく2009年に伐採された。現在は2本が残る。

写真:桜日和所有

塩釜桜

塩釜桜

平安時代には品種として存在していたと考えられる、花弁が約40片からなる大輪の八重桜。
昭和15年(1940年)に国の天然記念物に指定されるも、昭和32年ごろに枯死。

【現 在】
枯死直前に接木された苗木が育ち、鹽竈神社境内に植えられた物のうち31本が昭和62年(1987年)国の天然記念物として再指定された。

写真:桜日和所有

梅護寺 数珠掛桜

梅護寺 数珠掛桜

【根周り】 5m
【樹 高】 9m
梅護寺の桜の木に親鸞聖人が数珠をかけたところ、数珠のような花が咲くようになったと言われている。昭和2年に国の天然記念物に指定されている。


朽ちた主幹の周囲から7株が育っている。

日本巨樹名木図説より抜粋(1936年出版)


【現 在】
指定の原木は「ならたけ病」に感染し、平成14年に枯死。現在は組織培養により育った後継樹が植えられている。

写真:日本巨樹名木図説 三好学

極楽寺 野中桜

極楽寺 野中桜

【根周り】 4.2m
花びらが大きく野生の紅山桜の天然変形として植物学上貴重であることから、昭和2年に国の天然記念物に指定されている。


主幹は朽ちており、数本の支幹から成っている。一番太い支幹の幹周りは2.1m。

日本巨樹名木図説より抜粋(1936年出版)


【現 在】
太い支幹も無くなったようだが、ひこばえが成長し現在も濃紅色の見事な大輪をつける。

写真:日本巨樹名木図説 三好学

小木の御所桜

小木の御所桜

【根周り】 3.9m(東株)
【樹 高】 6.3m(東株)
【根周り】 2m(西株)
【樹 高】 5m(西株)
承久3年(1221年)佐渡配流となった順徳上皇御手植えと伝わり、呼称の「御所」はこの伝承に由来している。


本堂前の石段横に2株。東側の株は土際から6分岐、西側の株は土側から5分岐。

日本巨樹名木図説より抜粋(1936年出版)


【現 在】
現存(代替わりなど詳細は不明)

写真:日本巨樹名木図説 三好学

太夫桜

太夫桜

寛永3年(1626年)若松城下の掘江町にいた「いつき太夫」と云う名妓が、花見のおり、この辺で兇徒のために殺害された。弟の南秀という滝沢南岳院の法師がこれを大変悲しみ、霊を弔うために、墓側に植えた桜と伝わる。

【現 在】
枯死した初代から二代目が育つ。異様に太い根元付近が初代の面影を残す。

太夫桜

写真:桜日和所有

伊佐須美神社 薄墨桜

伊佐須美神社 薄墨桜

八重に一重が交わり、咲き初めは薄墨を含んだ白色、時期が進むに連れて紅色を帯びていく。 伊佐須美神が約1500年前に明神ヶ岳から遷座して以来の御神木であると伝わる。

【現 在】
樹齢推定100年と言う事から代替わりしていると思われる。
平成20年(2008年)に本殿が焼失、薄墨桜も影響を受けたが、順調に回復している。

伊佐須美神社 薄墨桜

写真:桜日和所有

細越の種蒔桜

細越の種蒔桜

江戸後期(1809年)の「新編会津風土記」には、このサクラが古木として記されている。
天正年間(1573~1592)に細越の領主だった猪俣氏の墓に植えられたと伝わる。

【現 在】
昭和の頃は墓地を覆う程枝を伸ばし、双幹の姿を誇っていた。現在は片側の幹が崩れ落ち満身創痍の姿ながら花をつける。

細越の種蒔桜

出典:巨樹・巨木林データベース:環境省

白旗八幡宮 旗掛桜

白旗八幡宮 旗掛桜

源義家が、戦勝祈願の際、白旗を立て掛けた桜の木。義経も参詣したことがある。

【現 在】
枯死しており、社殿の裏側に「旗掛桜」の石碑が立つのみ。

写真:桜日和所有

名勝 小金井 富士見桜

名勝 小金井 富士見桜

三好学博士が命名した名勝 小金井桜の銘木。

【現 在】
昭和初期には枯死しており現存しない。

写真:桜日和所有

名勝 小金井 日の出桜

名勝 小金井 日の出桜

三好学博士が命名した名勝 小金井桜の銘木。

【現 在】
昭和初期には枯死しており現存しない。

写真:桜日和所有

白山神社 白山旗桜

白山神社 白山旗桜

【根周り】 1.78m
【幹周り】 1.52m
江戸時代から知られており、江戸三名桜に数えられた名木。昭和10年(1929年)国の天然記念物に指定された。


現存株の根元近くに枯幹あり。

日本巨樹名木図説より抜粋(1936年出版)


【現 在】
天然記念物に指定された2年後に枯死。現在は後継樹が植えられている。

白山神社 白山旗桜

写真:日本巨樹名木図説 三好学

秋色桜

秋色桜

菓子屋の娘お秋(当時13歳)が、花見客で賑わう井戸端の様子を詠んだ句が評判となり、お秋の俳号である「菊后亭秋色」から「秋色桜」と呼ばれるようになった。

【現 在】
何代か植え継がれており、現在の桜は昭和53年に植えられたもの。

秋色桜

写真:桜日和所有

湯田中温泉 地蔵の桜

湯田中温泉 地蔵の桜

詳細不明。

写真:桜日和所有

原の閑貞桜

原の閑貞桜

【幹周り】 5.75m
【樹 高】 10m
享保(1730年頃)、剛力の僧侶「閑貞」によって植えられたと伝わる。 双幹の巨木で均整の取れた美しい容姿と、太さ樹勢を共に兼ね備えた銘木と称される。

【現 在】
昭和60年頃から樹勢が弱り始め、樹木医による治療も叶わず平成23年(2011年)枯死。
周辺には接ぎ木による子孫が育ち、枯死した幹の根元からも二代目が育っている。

原の閑貞桜

写真:桜日和所有

中将姫誓願桜

中将姫誓願桜

【根周り】 1.3m
平安時代初期に中将姫が病気の治癒をこの寺で祈願すると平癒したことから後世の女性の守護を祈って、この桜を植えたという伝承が残る。
昭和4年(1929年)国の天然記念物に指定された。


盛り土の上に立っていて石垣に囲まれている。根元上部から数本の支幹に分かれている。

日本巨樹名木図説より抜粋(1936年出版)


【現 在】
株立ちの姿そのままに現存。樹齢は推定1200年。

写真:日本巨樹名木図説 三好学

兼六園 旭桜

兼六園 旭桜

【幹周り】 6〜7m(地上30cm)
7本株立ちの巨木で園内第一の老樹であった初代は大桜と呼ばれており、ナショナル ジオグラフィック英語版(1914年7月号)では「日本で最も美しいと評判の桜」と紹介される。昭和12年(1937年)頃に枯死。

【現 在】
初代の根元から伸びたひこばえが成長し、二代目として立派に育っている。

写真:桜日和所有

兼六園 塩釜桜

兼六園 塩釜桜

【幹周り】 7m
【樹高】 10m
地上1m付近から4本の大幹に分岐していた。旭桜に次ぐ老木であったが昭和32年(1957年)に枯死。

【現 在】
平成13年(2001年)に宮城県塩釜神社から寄せられた苗が植えられている。

写真:桜日和所有

兼六園 菊桜

兼六園 菊桜

【幹周り】 2m
【根周り】 2.5m
江戸時代に加賀前田家が京都御所から賜ったと伝えられ、地上約90cm付近から枝分かれしていた。初代は昭和45年(1970年)に枯死。

【現 在】
初代が枯れる前に京都の桜守・先代佐野藤右衛門氏によって接木で育てられた二代目が植えられているが、近年樹勢の衰えが目立つ。

写真:日本巨樹名木図説 三好学

祇園枝垂桜

祇園枝垂桜

【根周り】 4m
【樹 高】 12m
初代の桜は明治19年の開園当初からあり、素晴らしい景観を誇ったが昭和22年に樹齢220年で枯死。

【現 在】
初代の種子から大事に育てられた二代目が、樹齢約80年を数える大木に成長。

祇園枝垂桜

写真:桜日和所有

雲井の桜

雲井の桜

吉野の獅子尾坂を登りつめた所にあった巨大な老木。
「雲居の桜」とは、本来、天皇がお住まいになる御所の中に咲く桜のことで、雲のように遠く、近づきがたい所にある桜という意味。後醍醐天皇が、吉野でお過ごしの頃、里人が雲井と呼ぶ山の上(獅子尾坂を登り切る直前)にあった桜をご覧になり「ここにても雲井の桜吹きにけり 誰かりそめの宿と思ふに」と詠じられた。

【現 在】
代々植え継がれてきたが昭和30年代に台風により倒れた。

写真:近畿名所 高木秀太郎

照源寺 金龍桜

照源寺 金龍桜

もとは摂津の天台宗金龍寺に植えられていたが、桑名城主松平定綱が松平家菩提寺の照源寺へ分植した。
「徳川時代初期以来存在している名木のひこばえとして、今日にその特徴を伝えているものである」と昭和9年(1934年)に国の天然記念物に指定される。


明治中頃までは8つの幹に分かれ枝張りが大きかったが、現在は1支幹のみ残る。

日本巨樹名木図説より抜粋(1936年出版)


【現 在】
1959年の伊勢湾台風の被害で倒木、1966年に国指定は解除。
接ぎ木をして育てられたが幾度となる台風被害により枝を損失し、現在は花を咲かせる状態にはない。

写真:日本巨樹名木図説 三好学

磯良神社 いぼざくら

磯良神社 いぼざくら

【根周り】 5.4m
【樹 高】 12m
神功皇后がお手植になったと伝えられる。八重咲き、花弁の数は二十枚を超える山桜の変種で昭和2年(1927年)に国の天然記念物に指定される。


根元から十数本の支幹に分かれているが故損している物が多い。

日本巨樹名木図説より抜粋(1936年出版)


【現 在】
指定の物は昭和19年(1944年)に枯死。
その後何本か接ぎ木したうちの1本だけが残り二世樹として育てられている。

写真:日本巨樹名木図説 三好学

忌部神社 睦桜

忌部神社 睦桜

詳細不明。

写真:桜日和所有

花山法皇 笈掛桜

花山法皇 笈掛桜

詳細不明。

写真:桜日和所有




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